![]() アーガマの中の一つ、「サンユッタ・ニカーヤ」には、 「一切」と名付けられた短い教典が収められています。 みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。 よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。 それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、 鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、 身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。 これが「一切」と呼ばれるものです。 誰かがこの「一切」を否定し、 これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、 それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。 さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、 病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。 何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。 (Sanyutta-Nikaya 33.1.3) 釈迦の説いた「世界(一切)」とは、 「六つの感覚器官(六処)」を通して認識出来る領域です。 そして、私たちがこれ以外に「認識できる対象世界」は存在しません。 眼 … 視覚によって知覚できる世界(眼識、光と色で構成される) 耳 … 聴覚によって知覚できる世界(耳識、音によって構成される) 鼻 … 嗅覚によって知覚できる世界(鼻識、匂いによって構成される) 舌 … 味覚によって知覚できる世界(舌識、味によって構成される) 身 … 触覚によって知覚できる世界(身識、感触によって構成される) 意 … 心の感受作用によって知覚できる世界 (意識、表象を伴うものと、伴わないものによって構成される) そして、五感によって知覚される、 光(色)と音と匂いと味と感触によって形作られた世界、 これを「欲界(欲動の対象となる世界)」と名付けたのです。 また、心の働きによって生起する認識対象を、 表象(形のある)を伴う場合は「色界」と名付け、 それらの伴わない微細なものを「無色界」と名付けたのです。 これが「三界(欲界・色界・無色界)」の最もシンプルな説明です。 釈迦が説いていた頃は、このような簡単な内容だったのです。 (それが、部派仏教の時代になると様々な解釈、注釈が付け加えられ 難解で分かりづらいものになっていってしまったのです。) ※以上が、私のgooブログの日記からの転載です。 ---------------------------------------------------------------- 釈迦は、出家をしてすぐに、二人の師の元へ赴いて、 「無所有処」と「非想非非想」の二つの瞑想状態を体得しています。 しかし、「これらは苦の滅尽に至る道ではない」として、 すぐに、それらの意識状態を捨てているのです。 釈迦の説いた三界とは、何を基準にして語られているのでしょうか? それらは霊的ステージの高い低いではありません。 単純に、「苦しみが多いか、少ないか」で語られているのです。 欲界とは、「五妙欲」に囚われた世界(意識状態)だということ。 五官とその対象(眼・耳・鼻・舌・身と眼識・耳識・鼻識・舌識・身識) 苦しみの因となる「囚われの対象」が、それだけ多いのです。 そしてこれは「五蘊」と対応させてみると、最初の三つがこれに当たります。 つまり、欲界は、「色(身体)」と「受」と「想」に対応するのです。 これに対して、色界と無色界は、第6番目の感覚器官とその対象 つまり、「意と意識」に属するので、「受」と「想」のみになるのです。 そして、無色界は、「色(表象)」が無い分だけ、 囚われる対象(苦の因)が少なくなっている、ということ。 つまりこれらは「苦を生起させる因・対象」の、 増減によって語られた「意識状態の種類」なのです。 (しかしこれらは、あくまでも一時的な増減であって、滅には至りません) 色界も無色界も、これを「五蘊」と対応してみると、 「受(の中の意)」と「想(想起されるモノ、意識世界)」に当たるのです。 ですから、「無所有処」も「非想非非想」も、 「自我を構成する五つの集まり」の中の一つ、「想」の範疇に入るのです。 (ちなみに、過去世の記憶も、この想の領域に属します) 「小空経」の訳を下記に示しますが、 http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/sunna.html ここでは明確に「無所有処についての想い」「非想非非想処についての想い」 という訳語が使われています。 これを「十結」と対応させると、「五下分結」が欲界に対応し、 「色貪」が色界、「無色貪」が無色界に対応するのです。 そして、無明の次にある「慢」が、優劣を生起させる… つまり、高い世界・低い世界、高いステージ・低いステージという認識(分別)をね。 釈迦は、五蘊無我(非我)を説いています。 もし、自己や世界をあるがままに観察し、 「これはわれに属するものではない、これはわれではない、 これはわれのアートマンではない」と知るならば、 自己や世界に関する誤った見方を捨てることができるであろう。 (マッジマニカーヤ 8:3) 仏教の世界観(ただし釈迦の教えでは無い)で「遊ぶ」のは自由ですが、 もし、それらに囚われているのだとするならば、 解脱・悟りへと至ることは、永遠に不可能だと思います。 |