数日内観してみた。内観は日本発の心理治療で、母や父が自分にしてくれた・自分がしてあげたことなどをトータル何時間と思い出す手法 それで図らずもぼくのA的な要素に気づいた。小中学と自分は優等生やってますがね(笑、附属中に上がった時点で何かが狂いはじめる。教師たちが愚かしいのも感じたが、理由の分からぬいじめにあって人間不信が増す。どこかにぼくの信用できる大人が存在するはずだ…… この「存在するはずだ」がすでに論理の飛躍だけどそう思った根拠の一つは書籍。図書の本と教師やクラスメートにすごいギャップがありました 基本的には教師に柔順で、周りの本能的な苛立ちを買ったようです。当時のぼくは大人が正しいか、自分が正しいか迷ってた。なにしろ智恵が足りないんですね いわゆるリテラシーができませんでした。というわけで宗教者よろしく、高校にて信を失い大学で脱会に至る 自分タイプの無智は周りに負担を掛けると思います。慎重に物をいわなきゃまずいから。おそらくA派も、他者への完ぺき主義にはまったのでしょう 開祖は自己の器ぢゃない無理をして、気が狂った面もあるかなと。もし最終解脱者にあらずと称すれば、信徒は別の「最終解脱者」を求めた さてグルの部分肯定、を採用できぬA派に別のリテラシーを考えてみます。すくなくとも彼らの理想グル――犯罪者としての現実グルぢゃなく――は脳内イメヂですね じつのところ、内観は帰依と奉仕の乖離に苦しむクリスト(キリスト)者に著効があるらしい。同じものをA派に当てればバクティーと四無量心のそれ。すこし考えれば分かりそうだが、刑務所の開祖は(教義では)変化身にすぎない。グルは遍在するというわけで 一人ずつの中にグルがいる。真我論でもよいですけどね、カール・リンポチェの話ぢゃ真我は仏性と。他者にグルを見いだす修行ならAにも可能的 とりあえず「化石のように」生き残れます |