魂は両義的かなと思いますが、輪廻の主体なら自我に。輪廻しないと定義すればアートマンに近いのでしょう。文脈に従って使い分けるところですか。 それでアートマンは自分の制約(煩悩)を手放すほどブラフマンへシフトできるかと。梵我一如の解釈、も多岐に渡りそうですがね。 自分は両者を引っくるめて真我と呼ぶけど、ブラフマンはユングのセルフのように非我をも含むことが多いからマハーヤーナ(無我)的なニュアンスが強い。 逆に真我のほうはヒナヤーナ寄りでなるべく非我との融和に努めるプロセスが必要になります(たぶん)。 サマディは真我・非我の区別なき状態とはいえ、真我の体験と呼ばれるのはやはり真我につながったディープな体験(癒し)ゆえぢゃないかと。 真我も魂と同じように、両義的な側面がある言葉かもしれません。理系と違って文系は ファジーな言語センスを持つ。 ちなみに開祖は真我を体験するが理解はしてなかったはず。理解すれば、世間を否定しづらくなるからです。 ところでインフォームド・コンセントの精神に則り真我説の副作用について言及。名前で理解した気になりやすい、ヨーガ系の魔境はこれが多いんですね。無我説のほうは比較的に安全だが悟りにくいと思われる。また、解脱なき(意識レヴェルの)悟りはエネルギーに欠けます。 ぼくとしては真我・無我どちらも使いたいわけで |