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#14764 2008年7月1日(火)11時46分
From: てんさい
Subject: 刑終え、被害者河野さんに贖罪の対話続ける元オウム信者 6月28日(土)
松本市の河野義行さん宅で、河野さんが書いた本の感想を話す元信者の男性(手前)。この2年間に10回以上訪ね、対話を続けている=27日
 47歳になったその男性は27日、山口県から高速バスを乗り継いで、半年ぶりに松本市にやって来た。向かった先は、市内の病院。ちょうど14年前、市街地にまかれた猛毒ガスのサリンを吸い、重い障害が残った河野澄子さん(60)が療養していた。

 「また、庭の掃除をしにきました」。男性は、ベッドの脇で前かがみになって澄子さんに声をかけた後、あの日惨劇に見舞われた北深志の河野さん宅へと急いだ。

 男性は、サリンをまく噴霧車の製造にかかわったオウム真理教(アレフに改称)の元信者。7人が死亡、600人近くが重軽症を負った松本サリン事件での殺人ほう助、殺人未遂ほう助などに問われて、懲役10年の実刑判決が確定し、2006年3月に刑を終えて出所した。

 その年の6月に初めて河野さん宅を訪れて以来、10回以上も足を運び、澄子さんを見舞って庭木の剪(せん)定(てい)をし、夫で事件の被害者の義行さん(58)とも対話を続ける。

 「体に巻き付けられた罪という縄が1本ずつほどけていくような感じがする」。28日、男性は、やせた小柄な体を精いっぱい動かして、河野さん宅の玄関先にあるモミジの枝にはさみを入れた。

      ◇

 14年前。「図面通り作ってくれ」と、教団幹部から噴霧装置の製造を指示された。図面から農薬などをまく装置という気がした。危険なことに使うのかもしれないと思ったが、命令は絶対だった。

 1994年6月27日。出来上がった装置を使い、教団は北深志の住宅街にサリンをまいた。

 発生当時、男性は、山梨県の教団施設にいて、事件のことは知らなかった。数カ月後のある日、教団内で「松本で毒ガスがまかれた」とのうわさを耳にする。自分が製造にかかわった噴霧車の中に松本市の地図が置いてあったのを思い出し、逃げ出したい気持ちになった。

 逮捕された後、教団を脱会した。1審の東京地裁は、男性の判決で「犯行の全容について十分な理解を持っていたとは認められず、教団幹部の指示を受けてなされたもの」としながら、「サリンの加熱、気化に使う容器の製作や噴霧実験に立ち会うなど犯行の重要部分に関与しており、刑事責任は重い」と認定。男性は減刑を求めて最高裁まで争ったが、退けられた。

      ◇

 山好きで松本を訪れていた女性、将来を夢見て大学生活を送っていた男性…。拘置中、弁護士から渡された死亡者の名簿には、何の過失もないのに突然、事件に巻き込まれた人たちの名前や職業などが記されていた。その暮らしや人生に思いをめぐらした時、自分の罪の重大さを感じ苦悩した。獄中で、「事件を知らなければならない」と義行さんの手記も読んだ。「澄子さんが口から泡をふいてけいれんを起こして苦しんでいた」。鮮明な描写に体が震えた。

 ただ、刑務所内には、地下鉄サリン事件の現場に献花されるニュースしか届かない。「なんで松本には誰も献花に行ってくれないんだ」と叫びたい気持ちになった。

      ◇

 2006年6月26日。男性は、サリンがまかれた松本市北深志の駐車場に初めて立ち、花を手向けた。隣の河野さん宅にも向かった。義行さんに「ここに訪ねられる立場ではありません」と言った後、声が出なくなった。「あんたも運がないね」。義行さんのその言葉に、緊張の糸が切れ、救われた思いがした。

 それから2年。何度も訪ねてくるこの男性を、義行さんは「刑が終わればただの人。差別すれば社会はおかしくなる」と、笑顔で迎える。対話こそが、贖(しょく)罪(ざい)を果たせない思いや人を憎しみ続ける気持ちから、加害者や被害者を解放させると信じるからだ。

 しかし、男性は、事件や被害者の話になると、「(贖罪は)死んでもできないかもしれない。自分がいなくなった後もずっと残って、消えない」と、険しい表情に戻る。

 事件から14年目を迎えた27日の夕方、男性は、河野さん宅で、義行さんから出版したばかりの本を受け取った。男性との交流にも触れて事件後をつづってある。

 「この本、買ったんですよ。ここに来るバスの中で読んで、目が潤みました」と照れくさそうに話す男性の目が、本をめくって一瞬とまった。そこには義行さんの直筆で「良き出会いに感謝」とあった。(高橋幸聖)

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