元芝さんのメッセージ(#12863)への返事 > オウムには「三法印」がありません。 > 「諸行無常印」「諸法無我印」「涅槃寂静印」このうち「諸法無我印」「涅槃寂静印」が欠けるのでオウムは仏教に非ず。 元芝さんと通りすがりの元さんの非常にレベルの高い議論、今朝になって拝見して感激 ものです。たいへん有難うございます。 管理人にはサパ〜〜リわからない話ですが、「諸法無我」「涅槃寂静」について一言、 そもそもオウムではアナートマンを「非我」と解釈し、五蘊のそれぞれはアートマンでは ない、と説明していましたし、上祐さんも言ってるわけですが、オウムの真我論の教義は サーンキャのそれに一番近いと。ヨーガと称してる部分ですね。またサーンキャについては、 中村元先生のご著書の中で西洋文献学派の仏教学ではサーンキャと仏教を近縁関係にあると いう学説が唱えられたことすらあること、初期の仏教が実質的にアートマンを説いていたと しても不思議はない、と指摘。 ------------------------------------------------------------------------------------------------- 中村元選集(決定版)第24巻 「ヨーガとサーンキャの思想」 春秋社1996 サーンキャ学派は、学界一般に常識として認められているところによると、ヨーガ学派と密接な関係があり姉妹学派と考えられている。サーンキャ学派が理論的考察を主とするのに対して、ヨーガ学派はむしろヨーガの実践修行に関する規定をくわしく述べている。両派の形而上学は大して異ならない。古典サーンキャ学派が無神論的であったのに対して、ヨーガ学派は有神論的であったというのが、特に大きな相違であろう、というのである。・・・教説の詳細・枝葉末節に関しては説明法の大きな相違も認められるので、やはり別の学派として考察する必要がある。 サーンキャ学派では・・・世界創造神とか主宰神とかいうようなものを想定しなかった。これがヨーガ学派の形而上学と最も異なる点である。 以前には、サーンキャ思想と仏教とのあいだに密接な連関を認めようとする学者もいたが、一般には承認されていない。 人間の感覚・知覚・思考・意欲などの諸作用は物質に属するのであって精神に属するのではない。純粋精神はだだそれらを照らして意識させるだけなのである。 なおサーンキャ哲学と呼ばれるもののうちには、神の存在をめぐって二種類あった。 (1)有神論的サーンキャ。これは古くからサーンキャヨーガと呼ばれるものであった。 (2)無神論的サーンキャ。 非我説的解脱観494p 仏教の説いた無我説、というよりはむしろ非我説は、後代には正統バラモン系統の思想に影響を及ぼすようになった。・・・アートマン(我)の哲学を説いた当時の哲人たちが、このように仏教の無我説を採り入れて、そこになんらの矛盾を感じなかったのである。したがって、仏教の修行者がアートマンの実現・愛護と、無我説とをともに説いていたとぢても、なんら不思議はないであろう。・・・ 無我説の表現法はまたサーンキャ学派にも継承されている。「わたしは存在しない」「[なにものも]わたしのものではない」という清浄にして完全な知が純粋精神としてのプルシャに起こったときに、解脱が成就するという。・・・文面だけでは、仏教の場合と著しく類似しているが、仏教が全体としてのアートマンに関しては終始説明を拒否していたのに対し、サーンキャ哲学派はアートマンに相当するプルシャを独自の形而上学的原理として想定している点に、いちじるしい相違が存する。 それよりもサーンキャ哲学の影響の大きかったのは、ヒンドゥー教諸派の聖典である。・・・このように、ヒンドゥー教諸派の教義学諸体系を通してのみサーンキャ的思惟は一般民衆のものとなることができたのである。 ヨーガはサーンキャ思想以前からあるものであり、サーンキャ哲学よりもはるかに古い。サーンキャ説はむしろヨーガの観法にもとづいて考え出されたものである。 サーンキャ哲学は、仏教の興隆よりものちに形成されたと一般に考えられている。かつては西洋の学者のあいだでは、仏教はサーンキャ哲学のなかから発展して出てきたという見解が行われていたことがある。しかし今日では、この学説は捨てられてしまっている。 サーンキャ哲学の起源は、初期のウパニシャッドや「マハーバーラタ」の中にたどることができる ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 私が当地の真言のお坊さんと勉強会していたときにも、常在主宰としてのアートマンを 我々も実質的に認めるような形だから、オウムを「無我」という点で追求したら自分の クビを締めるようなものだ、と仰ってました。日本仏教、というか大乗仏教を「無我」と いう点で「非仏教」と分類されるのでない限り、厨房的オウム批判によく用いられる如く 「無我」と「真我」との問題でオウムを責めるのは無理だと思います。 そもそもオウムは、仏教系新宗教としてのオリジナルな「仏教的」宗教だったのでしょう から、伝統仏教から外れた部分を有するのは当然。ま、私の所属する真如苑よりはまだ 仏教に近いかもw。五十歩百歩?? 「涅槃寂静」についても同様で、それに至る具体的手法を持たなかったと元芝さんが解釈 される、という意味であれば大部分の「仏教」は落第。オウムほどマハーニルヴァーナとか サマディという語を用いた宗教も少ないでしょうから。少なくとも理念、スローガンとして は涅槃寂静こそはオウムの中心であったと思います。少なくともタテマエでは。 |