セガ〜ルさんのメッセージ(#11210)への返事 > 教義を理解しないと事件を解明できないとかね、 それこそ「暴走」だったとしたら、 教義をいくら理解しても事件は解明できんでしょうなあ。(笑) ただ、教義を「把握」はしないと解明はともかくとして、 論じることは出来ないかもしれませんよ。 解明のためではなく、 オウム系列以外のカルト団体による惨事の予防、という意味では 教義と信者心理との関連性について研究する意義はあるかと思います。 > あとはYASUさんみたいに何カルパあとに真理だったとかね。 こりゃまたA派的な発想になりますが、 「真理」などという大層な言葉を使うから、 オウム信者は大上段に構えて物を考えるようになるのです。 たとえ釈迦本人の言説であっても、「真理」などと称するのは害が大きいですわ。 たとえ内容的に、宇宙の真理を言い当てている言葉であっても、 それは「真理を言い当てる言葉」であって、「真理」そのものではない、 と認識しておかないと、大変なことになるのは歴史の証するところ。 また、「真理」という言葉を人間が発した場合、 その人の見聞きした概念、現象の一つ一つを、 「真理」と「真理でないもの」との二つに分類して考えることになります。 この分類こそ「真理」の概念からかけはなれているもの、 というパラドックスをはらむわけだから、 (ほら、上の2行にもすでにパラドックスがあるのですわ) ここは誰の言説であれ、「教義」とか「哲学」とか、 差別機能を持たない、客観的な言葉で称するべきだと考えます。 ま、信者ご一同には、尊師の説法、及び言行録について、 もう少し文献学的な取り扱い方をしていただきたいですな。 某三百代言でも、教義の大半は正しいと言ってるくらいなわけだから、 信者的な発想で行けば、オウムの教義もいくらか時間がたてば「真理だった」 ということになると思います。 その次元でいえば、誰もが「真理」を日々語っているのです。 |