喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年

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Message#6524 2007年1月27日(土)01時11分
From: 아벨
変更
Re2:世間に誤解を与えませんか?
白龍さんのメッセージ(#6519)への返事

> > > 上祐さん自身が、グルの意思の実践として、 教団存続をしようとしていましたから。
>
> あべるさんは、今回の私の発言に反応されたようですが、
> この件に関しての書き込みは、私のブログの2006年10月13日、14日辺りに、すでに書き込んでいる内容で、特に今になって新たに持ち出した話ではありません。

この点を先ず取り上げられた意味はあまり理解できません。

> 2005年の分裂が騒がれだした当初は、説法で上祐氏自身が言っておられたはずです。

<i>「グルの意思の実践として教団存続をしようとしていましたから」</i>

という極めて強力な断定的ご表現と、今回のご説明と、ずいぶんギャップが大きいと思い
ます。
「はず」というような曖昧な根拠で、こういった重大な問題に関して、アクセスの多い、また
いろいろな人々が出入りしている掲示板で断定的に述べられるのは如何なものでしょうか。

> 大乗仏陀イニシエーションの詞章を持ち出して、本当のグルの意思はこれだと言う形で、解説をされていたと記憶しております。

はい。大乗仏陀イニを引用されたことは確かにあったと記憶していますが、悪意の揚げ足取り
しか考えない糞マスゴミなら、当該詞章のうち冒頭のグル云々の部分を「ブツ切り」にして
針小棒大に吹聴して「上祐はグルの意思とは何かと常に考える」ことを重視してる、とでも
言うことでしょう。グルの意思=犯罪という前提において。
しかし、現実には、たとえば2005年9月24日の門真における説法では、「大乗仏陀イニの最後
の部分」こそ重要、すべての魂に対する法施、自分のすべてを真理に変えるために、という
ご説法の文脈の中で「大乗仏陀イニの最後の部分」という取り上げ方がされています。大乗
仏陀イニに言及されたことに関しても、単に表面的なことでなく、どのような真意で、どの
ような文脈の流れの中で、どのように取り上げられたのか、という部分がもっとも重要であり、
その吟味無しでは糞マスゴミのやり方とかわらないと思います。もっともぼんちさんや白龍さん
がご指摘の通り、この問題は極めて微妙な部分にふれるものであり、現世には到底正大師が
思っておられるような形で素直には受け入れてもらい難いのも事実でしょう。

しかし、「正大師が『グルの意思の実践として教団存続』をしようとしていましたから」と
断定的に述べることは、客観的に事実を語っているとはいえません。
>
> 「グルが入滅した後、もし私が
> 愛というものを背景に救済しなかったならば
> 真理の炎は消えてしまうに違いない
> 私は愛の実践に入ろう
> 自己の苦しみを喜びとし
> 他の苦しみを自己の苦しみとし
> 愛によって、他の苦しみを取り除こう」
>
> この部分を強調して話されていましたね。

一応資料として、全体を私の知る限りにおいて引用しておきます。

グルの意思は何だとたえず考える
わたしはグルの意思を実践しているのだろうか
偉大なグルの愛によってわたしは成就した
もしグルに愛というものがなかったら
わたしは成就することはできなかった
わたしの周りの人たちは以前のわたしと同じように
大変な苦しみに打ちのめされている
グルが入滅したあと もし私が
愛というものを背景に救済しなかったならば
真理の炎は消えてしまうに違いない
わたしは愛の実践に入ろう
自己の苦しみを喜びとし他の苦しみを自己の苦しみとし
愛によって他の苦しみを取り除こう
苦しみの総量は一定である
他の苦しみを自己の苦しみとしたとき
自己のカルマに濁りが生じることに疑いはない
そして来世わたしは
三悪趣に生まれかわるかもしれない
三悪趣の苦しみは
心の解放をしたわたしにとって
苦しみではない
三悪趣のすべての苦しみが
わしの中に吸収されたとき
グルの意思の実践は終る
そしてすべての魂の苦悩も終わる
そしてすべてが真理にかわる

そもそも、「グル」のどの要素を見るかという問題にもなるわけですが、正大師の説法の
中に、「グルの中に慈愛を見た人も確かにいたであろう」といった文脈は確かにあったと
記憶しています。
松本智津夫死刑囚の要素として100-0で「極悪非道殺人鬼」という要素だけがあるのではなく、
力のある宗教家としての要素や弟子に対して慈愛の心を示した存在という部分も否定できない、
その「慈愛」の部分について語られた文脈の中で「グル」について述べられているわけにて、
たとえばマスゴミのように、国家転覆をもくろむ殺人鬼を肯定するという意味にスリカエる
のは適切ではないと考えるのが妥当でしょう。

> 他の信徒さんから聞いたところによると、2005年6/27、7/3日のDVDあたりには、
> 正大師の大乗のヨーガ成就式典の時の尊師の言葉の引用や、オウムとは別な団体を作るようにとか、あるいは小さなお寺を作るようにとか、シヴァ大神を大黒天と呼びかえるように等のお言葉があったということを語っている内容が入っているそうです。

その時期には上祐さんは未だ信徒に対しておおっぴらには説法をされてなかったと思いますが、
関東方面では既にDVDまで撮って説法されてたのでしょうか??甚だ疑問にも思います。

大乗のヨーガ成就のときの言葉の引用というのは、逆の大乗の道とか叩かれるとかいった
部分でしょうか。それが「グルの意思の実践としての教団存続」というお言葉とどう関係
するのでしょうか? これまた伝聞情報にて、それも「セイラさんによる正大師殴打事件」
に関するご伝聞等と比較しても信憑性など如何なものなのでしょう??

> 私は、人間が命をかけて信じたものを、手のひらを返すように、そうそう変えることは出来ないと考えております。信徒の私でさえ、現在も悪業の意識にさいなまれるような思いになることがあるくらいですから・・。

白龍さんがそのようにお考えになることと、正大師の意思に対して断定的に「グルの意思の
実践として教団存続をしようとしていましたから」と述べられることとは全然別の問題です。

推認として断定的に述べられるからには、何人も疑いをさしはさまない程度の根拠という
ものが必要なのではないでしょうか。
>
> 古い信徒は、上祐氏の選択は仕方が無いだろうとみてはいても、その本質はグルの意思の実践とみている方もいるのではないかと思います。私のブログのコメントをみると、セイラさんやぼんちさんも、そのように感じている部分がおありなのではないかなと思っています。

もちろんそういう人は多いでしょうが、だからといって「上祐さん自身が、グルの意思の
実践として、 教団存続をしようとしていましたから。」と 断定的に述べるのは不適切では
ないでしょうか。
上記ご断定の根拠としてあげられたものは大部分が伝聞情報のようですし・・・。

> しかし、その後の歩みこそが大事だといえばその通りで、過去は過去と捨ててしまえるなら、それはそれでよろしいという思いもあります。こだわっているのは、私だけかもしれませんし・・。

ま、ぶっちゃけて言ってしまうと、周囲の師の方などには、まだまだ旧団体気分の方も多い
と思いますが、教材をあえて捨てるといったラディカルな実践の中で、代表派の方々は必死
で頑張っておられる部分は確かにあるように感じます。正直言って私には一寸ついていき
にくいところかもしれませんが、大いに称賛に値するところだと思います。

ただ、白龍さんですらこのように言われるくらいですから、世間の人は皆「単なるグル隠し」
だと思ってることでしょう。まあ「過去を捨てる」というのとは一寸違うようにも思います。
過去を乗り越える、アウフヘーベンするって感じでしょうか。

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