喫茶Honfleur掲示板 2007〜2009年
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Message#20047 2009年2月16日(月)09時28分
From:
和井 恵
変更
Re2:真我
キャンディさんのメッセージ(
#20022
)への返事
> 以前にネットでだったか、日本仏教協会?(違うかも、よく覚えてない)だったかが
> (輪廻は存在しない)って結論づけた、って話を、読んだのよ
ほー、それはそれは…
> 漏れはきょとんとした
> オウムでは輪廻転生があると、当然のごとく言ってたんで
> 気の毒に、仏教を学んでも縁の無い人は間違ったことを教わるんだと
> 思ったが、一方で権威のある人らがそう間違ったことを言うはずないなと
「権威のある人らがそう間違ったことを言うはずない」
これを心理学では「威光暗示」という心理的な作用なのだと説明しています。
これは、一種の「盲信(思い込み)」だと言えるでしょうね。
> で、何を根拠にその仏教協会が輪廻は無いと言い切ったのか、調べてないから
> しらんが、その後、ボチボチ本を読むに
> (すべては無常であり、苦であり、非我だか無我だから、実存しない)と
> いうならば、(自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されているんであって
> じゃあ、自分というのは実在しない)(じゃ、実在しないはずの自分が輪廻するはずない)
> という理屈なのかなあ、と思った
【自分自身も実在しないはずの五蘊で構成されている】
この部分は、ちょっと違いますね。
五蘊とは、「自分自身がそこに在る」という認識(手がかりとなる証拠)を、
生起(感受)させてくれる「対象」の集まりを示す言葉なのです。
つまり、目は目を直接見ることは出来ないけれど、
例えば自己を映し出す「鏡」が目の前にあれば、そこに映る自分の姿を見ることが出来ます。
しかし、その対象はあくまでも「虚像」なので、目そのもの(実像・本物)ではありません。
五蘊とは、つまり、自己が投影された「虚像の集合体」のことなのです。
自分がちゃんと存在してるんだと、自分に認識させてくれる「対象」の集まりなのです。
ですから、その「虚像」を構成する五つの要素も、
その集まりによって形成されている全体としての自己像も、自己そのものでは無いのです。
だから釈迦は、「五蘊非我(それは、アートマンではない)」の教えを説いたのです。
そして無我とは、自己に関わる問題というよりも、もっと一般的な意味で使われていて、
森羅万象の全ての存在には、不変的な実体など無く、縁起によって生滅するだけの、
「無常(変化する一時的な現象)」があるだけなのだ、という意味で使われるのです。
> なんで真我はあるということになったのか
> ご説明ください
正しくは「無いわけではない(否定の否定)」と言っているのです。
「ある」と言ってしまうと、「言葉の持つ虚妄性の罠」に落ちてしまうから…
> 漏れも知識がないんで、変なことをわめいているかもしれんが
> 輪廻の消滅には、我の消滅が必要なんじゃ、と
> うっすら想像してます
> 我があったら、そこから展開していくんですよね
あのね、輪廻をしているのは「自己」では無いのです。
輪廻をしているのは、自己を認識させている「五蘊(虚像)」の方なんです。
五蘊は、森羅万象(有)の中に含まれるから、それは無常の存在ですよね。
常に変化して、生じたら必ず滅する(崩れ去る)ものなのです。
そうすると、五蘊を自分だと同一視してしまっているいる自己は、
まるで、自分自身も崩れ去ってしまうような錯覚(自己喪失の恐怖)に襲われる。
そこで、一生懸命に、何とかそれを食い止めようとする。
これは、砂浜で、砂のお城を一生懸命に造っている子供の状態に似ているんです。
お城が大好きな子供は、砂を使ってそれを完成させようとします。
しかしそのお城は、砂で出来ているので、しばらくすると崩れてしまいます。
だけどそれが嫌だから、子供はそれをまた造り始めるのです。
造っては崩れ、そしてまた造っては崩れていく…
その繰り返しが、果てしなく延々と続いている状態、これが輪廻なんです。
「崩れ去るのが嫌で、何とか砂の城を保持したい」と必死に願う心の働き、
これが、釈迦が言っている「生存渇愛」という煩悩なんです。
そしてこの煩悩が、新しい(次の)五蘊を生起させる因なんですね。
つまり、輪廻を継続させる「行(潜在的な形成力)」となるのです。
五蘊が自分自身だと思いこむ錯覚(無明)によって、
それを何とか保持したいという欲求(行・生存渇愛)が生まれるのです。
> それとも(我はある、いや無い)と(考えている)こと自体が
> すでに間違ったことなのかもね
「ある」と見てしまうのは「常見」で、「ない」と見てしまうのは「断見」です。
これらは共に「対象」に対する認識の種類を示しているのです。
認識の持つ二つのパターン(ある・ない)をね。
認識というのは、対象に対する働きなので自己そのものには使えないのです。
そこで、無理やり自己を対象化して認識しようとする…
すると、自己は自己では無くなり虚像化してしまうので、
パラドックス(矛盾・迷妄・無明)の罠に落ちてしまうのです。
> 釈迦はサマディを煮詰めていって、最終段階で
> (この考えるということは、劣ったことである)として
> 滅想受だか、想受滅だかに、入ったんだとか?
「考える」ということが劣っているとは思いませんが、
「明智」を得ていない状態の思考には、限界(無理)があるのです。
これは、ジグソーパズルの遊びに似ています。
10個のピースのパズルを完成させるのは簡単でも、
100個のピースだと難しいでしょ?
1000個の場合ではどうでしょうか?
つまり、分析すればするほど解りにくくなってゆく…
そして、予(あらかじ)め、
そのパズルの「完成図(全体の絵)」が解っていないと、
ピースを正しく組み立てることは不可能に近いですよね。
明智とは、この完成図を知る(直視する)能力のことなのです。
ですから、この能力を得てから思考した方が、
途中で悩んだり迷ったりしなくて済むので、楽でいいと思いますよ。
釈迦はこの状態を「慧解脱する」と表現していますけどね。
この「明(智)」は、自己が真我を「自覚」した瞬間に、
その「自覚」の副作用として発現するのです。
つまり、自己が何かということが解った瞬間に、
自己以外のモノ(一切という全体図)が何か、ということも自動的に解るのです。
一種の反動形成ですよね、これは…
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