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Message#5114 2006年9月8日(金)11時41分
From: 和井 恵
 
Re10:超能力や神秘体験
YASUさんのメッセージ(#5111)への返事

> > 要するに、自分たちの「優位性」を示すために、当時の「上座部の僧侶」のみならず、
> > 釈迦の「直弟子達」までもを「声聞」や「縁覚(独覚)」の分類の中に押し込めてしまったのだ。
>
> わたしの愛読書「維摩経」には、その模様がよく描いてあります。

ああ、そうでしょうね^^
「維摩経」は完全な後世の創作経典の一つですが、
「維摩居士」という「在家の修行者(主人公)」を登場させ、
もう既に無くなっているはずの、サーリプッタを始めとする「釈迦の直弟子達」をも登場させて、
何かにつけては「維摩居士」が最も優れているのだ、という説明に終始しています。
まさに「大乗の菩薩」優位性を誇示する「プロパガンダ」になっているのです。


> > 菩薩が行う二つの修行、「誓願行」と「波羅蜜行」は、
> > 釈迦の説いた「教え」や「修行法」とは、まったく「無縁のモノ」なのだ。
>
> 修行の方向性が違うとか?。
> お釈迦様は自身が最終生であるから、弟子にニルヴァーナへの道を説いたのかも。
> そうなると、「功徳」なんてあまり重要性はないですし。

元々、釈迦の修行と「功徳」や「カルマの法則」は関係在りません。

「功徳」は一応「善業(善因楽果)」として、「カルマの法則」の範疇に入ります。
しかし釈迦は、解脱に至る方法論として「縁起」を説いたのです。

では、縁起とは何なのか?
(以下、2ちゃん、オウム77からの抜粋を転載します)

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●778 和井 恵 2006/08/27(日) 11:32:26 ID:HdIJ+5N3

>相互依存は虚像である。

サーリプッタは、この「縁起の法」について後輩達から尋ねられ
次のように説明しています。

そこに、「二つのワラの束」が互いに寄り添い合って立っているよね。
(人の文字の形をした二つの束をイメージして下さい)
それらの、どちらでもいいから、片方を取り除いてごらん。
すると、どうなるか?
もう片方は、「自力で立ち続ける」ことができなくなり、
そのまま「倒れてしまう」だろう。
つまり、「お互いに支え合って」いてこそ、
これらの束は「立って(生起して)」いることが出来るんだ。
この関係を「相互依存関係」、つまり「縁起の法」と言うんだよ。

縁起の法とは「存在を成立させている関係(現在)」の分析なのであって、
「存在を成立させている原因(過去)」を分析しているのではありません。


●783 和井 恵 2006/08/27(日) 11:40:11 ID:HdIJ+5N3

>苦の滅尽をすること。正に苦が生起したから滅尽をする。

私の考え方は違いますね。
「苦が生起した(起きてしまった結果)」ではなくて、
「苦が生起している(という現状認識)」によって、
その状況を成立させている「構成条件」を分析して、
それらの要因を取り外す、ということ。

>すなわち万物は因果関係により定義することしかできない。

私はそうは考えていません。

>二つの関係を無理やり相互依存によって
>同時と見てしまうことは盲目への入り口であること。

貴方にとっては、無理やりに見えるのでしょうね…


●799 和井 恵 2006/08/27(日) 12:11:10 ID:HdIJ+5N3

>これが因果関係にあるということです。

一般的に、「因果関係」とは、「過去・現在・未来」といったような
「時系列的な流れ」をイメージしますよね。
私は、そのような関係として捉えてはいけない、と言っているのです。

「今、この一瞬(現在そのもの)」に意識を集中する必要がある、
と主張しているのです。修行を進める為にはね…


●916 和井 恵 2006/08/27(日) 21:15:08 ID:HdIJ+5N3

>和井さんの「縁起の法」についての見解は、
>「二つのワラ束が人形に寄り添って立っている状態」、
>つまり、どちらがどちらの方向にどう力が働いて
>この状態が成立しているのか、という分析(現状に限定)であって、

「どちらがどちらの方向にどう力が働いて」
そこまで細かく考えなくても良いのです。
つまり、「二つの構成要素」は、
それ自体(単独)では生起し続けることができない。
二つが揃(そろ)って「互いを支え合う」ことによって、
初めて「存在することが出来る」ということ。

「無明」というものは「貪り・怒り・無知」という
三つの構成要素によって支えられている。
つまり、これらのうちのどれか一つを「取り外す」だけで、
「無明」は存在することが出来なくなってしまうのです。
ただ、「三毒」は連動しているので、
「貪り(渇愛)」を取り外すためには、
ある程度「怒り」や「無知」の働きも弱めた方が
「外しやすい」のですけどね。

>どうしてこのような形でワラ束が置かれているのか、
>誰かが持ってきたんだろうか、とか
>そういう分析(経緯を問う)ではないのだ、ということですね?

それは関係ないですね^^


●919 和井 恵 2006/08/27(日) 21:30:37 ID:HdIJ+5N3

>三つの構成要素によって支えられている。

つまり、「二つのワラ束」ではなくて、
「三つのワラ束」が、互いを支え合っている状態を
イメージしてみて下さい。

これら三つが支え合うことによって生起しているのが
「無明」とよばれる状態なのです。
そのうちの一つを取り外すと、
残りの二本も「バランスを失って」倒れてしまうでしょ?

だから、初期のアーガマでは、
「渇愛を滅することが、苦の滅尽である」
というような表現もされているわけ。

だから、三つの「択法覚支(セレクション)」

「怒り」に焦点を当てたアプローチの仕方。
「貪り」に焦点を当てたアプローチの仕方。
「無知」に焦点を当てたアプローチの仕方。

これらを、その人の特質(タイプ)に合わせて選び出し、
うちの「どれか一つを実践する」といいでしょうね。


●934 和井 恵 2006/08/27(日) 23:03:27 ID:HdIJ+5N3

>初期以降の「3つの択法覚支」との関連性

「3つの択法覚支」というものは、特にアーガマには登場していません。
縁起の法を使った、私のオリジナルの表現です。

>「渇愛を滅することが、苦の滅尽である」

「十二縁起」と呼ばれている教えがありますが、
これらは後期に(あるいは死後に)なって、
「整備されて出てきたモノ」だと言われています。
そして私は、釈迦は「このような説き方」は
していなかったのではないか、と考えています。
これは、おそらく部派仏教の学僧達が、
「因果理論」を念頭に置いて、
「縁起」を顕そうとしたのだと思います。
これは「業感縁起」と呼ばれ、私は誤った解釈だと考えています。

「十二縁起」の原型となるような表現。
その、初期の形はもっとシンプルでした。
その中の一つの表現が「渇愛を滅することが、苦の滅尽である」なのです。



●938 和井 恵 2006/08/28(月) 01:20:12 ID:J0rLCk3F

>「十二縁起」っていうのは、先ほど私が喩えたところの、
>「このワラ束を誰が持ってきて置いたのか」というような、
>いわば時系列的な因果関係だと理解すればよろしいですかね?

そう。後世の学僧達が、
おそらく無理やり「時系列的な解釈」を創作したのだと思う。
これは、「縁起の法」を「カルマ(因果関係)の法則」と
勘違いさせるようなもの。
だから、「業(=カルマ)感縁起」と呼ばれている。

私が以前別な人と、「因果関係」と「相関関係」で揉めたのも、
そこがポイント(論点)だったわけ。


●942 和井 恵 2006/08/28(月) 01:56:14 ID:J0rLCk3F

つまり、縁起というものを時系列的な流れとして、
「過去(因)・現在(途中経過)・未来(果)」のように捉えてしまうと、
原因は、すでに「過ぎ去ってしまった過去のこと(既成事実)」なので、
それを直接変えることは出来なくなる。
だから、現在行うことは「過去の過失の尻ぬぐい」でしかなくなる。
そして、「未来の果への準備や種まき」になってしまう。
その後は、その未来の結果が顕れてくるのをじっと待っているだけ…

ところが、これを「今現在起きていること」と捉えるとどうなるか?

三つのワラ束の中の一つを選んで取り除く。
これは「今、直接出来ること」だよね。
だって、原因は「過ぎ去った過去」にあるのではなくて
今すぐに手の届く「目の前にある」のだから。
そして、その中の「一束」を選んで鷲掴みにして引き離せば、
目の前で「三つのワラ束の相関関係(=無明)」は崩壊するんだ。
わざわざ「未来の果」を、首を長くして待つ必要はない。

つまり、「因」も「果」も、すぐに手の届く目の前にある、
という「認識」を与えてくれるのが「縁起の法」の本質なの。
つまり、来世(未来)や過去世(過去)などを考える必要のない、
「現世(現在)のみにポイントを絞った成就の法則」なんだよ。

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かなり長くなってしまいましたが、
「縁起」と「カルマ(因果律)」の違いを解って頂けたでしょうか?

「カルマ(因果律)」に囚われていたままでの「修行」では、
例えば、999人の殺人を今生で犯した「アングリマーラ」などの解脱は
まったく不可能だったはずなのです。


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