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Message#5106 2006年9月7日(木)23時26分
From: 和井 恵
 
Re8:超能力や神秘体験
聖者ぼんちリンポチェさんのメッセージ(#5103)への返事

> 「菩薩」ってのは「大乗仏教」では良しとされている・・・
> というか、「ブッダ」を除けばいわば最高の真理の実践者とみなされているでしょう?
> この、「菩薩」なる概念が存在することにはどのような問題点があると思いますか?

まず、歴史的な背景として、「大乗」「小乗」と同じように、
「大衆部」が、自分たちの「優位性」を大衆に認知させるために創り上げられた「概念」。
彼らは、「声聞」「縁覚(独覚)」「菩薩」という「修行者階層(差別用語)」を捏造した。

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●声聞 (しょうもん、zraavaka)

 シュラーヴァカは「教えを聴聞する者」の意で、初期経典では出家・在家ともに用いられる。
 門弟や弟子の意味で用いられるのはジャイナ教でも同様であるが、仏教では後になると出家の
 修行僧だけを意味し、ジャイナ教では在俗信者のみを意味するようになった。
 大乗仏教からは小乗と呼ばれ、自己のさとりのみを得ることに専念し利他の行を欠いた出家修
 行僧とされた。


●辟支仏 (びゃくしぶつ、pratyeka-buddha)

 サンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、旧訳では一般的である。
 また「縁覚」「独覚」とも漢訳されるように、師なくして独自にさとりを開いた人をいい、
 仏教やジャイナ教でこの名称を用いる。
 仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁
 覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟
 角喩独覚とに分ける。
 大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。


●菩薩 (ぼさつ、bodhisattva )

 仏教の中で、仏陀にななろうとする修行者を言う。
 サンスクリット語のボディサットバ(bodhi-sattva)は、漢訳された場合「菩提薩埵」となる。 
 「菩提」は「覚」であり、「薩埵」は「生ける者」の意味で衆生とか有情と意訳された。
 このため、「悟りを求める人」と「悟りを具えた人」の二つの意味で呼ばれるので、インドで
 の菩薩には2種類の菩薩が、さらに中国では「インドの大乗仏教の僧」を菩薩と呼んだから、
 同じ菩薩に3種類あるから、注意が必要である。

 大乗仏教運動が起こった背景にはさまざまな理由が考えられるが、釈迦と同じ修行をしていた
 部派仏教の僧侶が誰も仏陀に成れなかったことから起こった運動とも考えられる。
 その大きな要因を二つ考え、欠けた者たちを次のように呼んでいた。

 ・仏陀の指導がなければ仏陀にはなれない。独覚(どっかく)
 ・修行者に利他行が欠けているから仏陀になれない。阿羅漢
 
 大乗仏教ではどちらも仏陀になれないとされた。
( オンライン版 仏教辞典 より )
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要するに、自分たちの「優位性」を示すために、当時の「上座部の僧侶」のみならず、
釈迦の「直弟子達」までもを「声聞」や「縁覚(独覚)」の分類の中に押し込めてしまったのだ。

     ※        ※        ※

例えば、ここに「自動車の運転学校」が在ったとしよう。
目的は、「運転免許の獲得」。
そして、三種類の「受験生」がいた、と。

一人目は、「ガリ勉タイプ」。学校でひたすら自分が合格するために勉強する。
二人目は、学校に通わずに「独学」で合格しようと勉強する。
三人目は、自分だけ受験するのが嫌なので、大勢の仲間を外へ出かけては連れてこようとする。
     しかし、「勧誘」は一生懸命だが、勉強はあまりしない。
     「おれは最後に合格すればいいのさ」と豪語している。
     そして、どうやら「大勢を仲間に引き込んだ功績」によって、
     学校から合格させて貰えると思っているらしい…

この中の、三人目の「タイプ」だけが増えていったら、どうなるだろうか?
「合格者」は出ずに、運転の仕方を知らない生徒だけが、どんどん増え続けることになるのだ。
「私は一番最後でいい」などというのは、「詭弁」にしか過ぎない。

一番良い方法は、自分がより早く「合格」して、実際の「運転の仕方」を教える側に回ればよい。

     ※        ※        ※

「菩薩の修行」というものにも、大きな問題点がある。
彼らは「功徳」というものを修行のベースに置く。
しかしこれは、古代インド思想の「ブラフマン(サッティヤ)思想」と「同根」なのだ。
「かならずそのとおりにものごとを実現する力の発現」をベースとして考え出されている。

 → http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/bosatsu.html

菩薩が行う二つの修行、「誓願行」と「波羅蜜行」は、
釈迦の説いた「教え」や「修行法」とは、まったく「無縁のモノ」なのだ。


この「「ブラフマン(サッティヤ)思想」に関しては、
釈迦はアーガマの中で次のような説法をしている。


釈迦「ここに、ある人達がいて、重い石を池に投げ込んで、池の周りをぐるぐる回りながら、
  『さっきの石よ軽くなれ、さっきの石よ軽くなれ』と何回も何回も唱えたとしよう。
   すると、その石は『軽くなって浮かんでくる』だろうか?」
弟子「いいえ、そのようなことは、ありません」


これは、何を言っているのかというと、
「言葉の持つ力(願望成就力)」を信仰する者達への痛烈な批判なのだ。

「(大乗の)菩薩」の登場によって、
釈迦の教法(教えとその実践)は、完全に闇に葬られてしまったのだと私は考えている。


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