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Message#3188 2006年3月17日(金)14時24分
From: 和井 恵
 
中間投稿その2。
●二人の息子を持ったお婆さん

私が知る限りでは、「為したことしか返ってこない」というこの「言葉」の意
味を、『今生で他人から「殴られる」人は、前世で他人を「殴った行為」を持
つからであり、今生で他人から「殺される」人は、前世で他人を「殺した行為」
を持つからだ』と言う様に、「即物的」で「単純明快」な「説明」をしている
「教義」は、オウム以外に存在していません。
ほとんどの仏教では、この言葉を「蒔かぬ種子は生えぬ(蒔いた種子は刈り取ら
なければならない)」という「原因と結果(因果関係)」を顕した言葉と「同列
(同じ意味)」に捉えているのですが、その内容はそれほど「即物的」でも「単
純明快」でもなく、もっと漠然としているのです。
ですから、私がオウムと巡り会って、初めてこの「カルマの法則」を聞いたとき
は、本当に「面食らって」しまいました(笑)。
そして、最初に出てきた疑問は、(本当にこのような「単純な捉え方」をしても
いいのだろうか?)というものだったのです。
そして、「物理的」に色々と考えていくと、先ほど説明したような「客観的な捉
え方」も出来ることに気がつきました。
しかし、それでは何故このような「捉え(教え)方」をするのだろうかと考えた
時に、ふと、ある「お話」を思い出したのです。

アーガマには、次のようなエピソードが描かれています。

在る処に「二人の息子を持ったお婆さん」が住んでいました。
兄の方は「日傘」を売り、弟の方は「雨傘」を売って生計を立てていたのです。
ですから、毎日毎日お婆さんは「雨が降る」と「兄の日傘が売れない」と思って
心を悩ませ、「太陽が顔を出す」と「弟の雨傘が売れない」と思ってその心を痛
めていました。
それを伝え聞いた釈迦は、お婆さんの元へ出かけて行き、次のようなアドバイス
をします。
「お婆さん、天気の良い日は、兄の日傘がよく売れると考えて喜びなさい。そし
て、雨の日は、弟の雨傘がよく売れると考えて喜びなさい。」
これを聞いたお婆さんは、その日から息子達について「想い悩む」ことが無くなり
「喜び」に満ちた日々を送るようになりました。

つまり、この「カルマの法則」というものを、「ある特定の捉え方(認識方法)」
をさせることによって、その人に「利益」を与える「対処法」としての「教え」な
のではないか、と考えてみたのです。
すると、「この認識の仕方」は、「他に対する怒り」を押さえ「自己責任」を「自
覚する」のに、とても「効果のある優れた方法」であることが解ります。私たちが
他に対して「強い怒り」を覚えるのは、「相手から受けた行為」が「理不尽」だと
感じる場合がとても多いのです。
(自分は決して悪くない。なのに何故こんな理不尽な仕打ちを相手から受けなけれ
ばならないのだ?!)
そして、悪いのは「自分」ではなくて「相手」の方であり、「責任」は全て「相手」
の方に在るのだと考えて「怒り」を増幅させてしまうのです。

仏教では「怒り」や「嫌悪」を「三毒」の一つとして捉えていますから、この働き
を「抑制する目的」を持った「教え」として「カルマの法則」というものを捉えると、
「為したことしか返ってこない」という「見解」は、「怒りの抑制方法」としてはと
ても「効果」がある「考え方」なのです。

しかし、そうではなくて、あくまでも「為したことしか返ってこない」ことが「法則
として正しい」と仮定した場合、どのような「世界観」が生まれてしまうのでしょうか?


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